偶像の余白

ド新規髙地優吾担

ゆごほく伝言板解体作業

 

WiNK UP2021年8月号、ゆごほくビックバンをあなたはご覧になっただろうか。

 

このブログは、松村北斗からメンバー&ファンへの伝言板「髙地へ」の欄を読み、非常に混乱したオタクが、ゆごほくのことが全く分からないなりにあの文面を理解しようとした結果をまとめたものになります。

 

※ここから先はド新規である個人の誇大解釈による虚言ですし、そもそも耐えきれない容量の“ゆごほく”を投げつけられて混乱した狂気が並べ立てられているだけなので注意してお進み下さい※

 

 

 

 

 

 
①果たして“髙地へ”は髙地に向けた言葉なのか

まず、伝言板全体を読み、“髙地へ”だけ異質だと感じた。髙地に向けた文面でありながらも全くそうではなかったように思った。
“京本へ”も、“慎太郎へ”も、“樹へ”も“ジェシーへ”も、しっかりその人に向けての「あなたの事をこう思っています」を根拠として、「だから尊敬している」であったり「心配している」であったり「こうしてほしい」であると、そう読んだ。


でも、“髙地へ”はただ北斗の中にある《北斗にとっての事実》だった。断定だった。わたしにはそうとしか読めなかった。

「俺の知ってる髙地ってこういう人」

「俺にとって俺と髙地の関係性ってこう」

ただひたすらに、北斗の世界における、事実。まるで「今更髙地に“伝えたいこと”なんてないよ」と言わんばかりのもの。
「北斗が髙地に伝えたいこと」がものすごく見えづらい。“髙地へ”ではなく、“ゆごほく厨へ”と書き換えた方がいいんじゃないかってくらい。
それくらい、髙地に向けた“髙地へ”とは思えなかった。

 


でも、もしかしたら。

『あなたにお手紙書きましょう』で、北斗は「多分きっと、リーダーはいちばん低い役職です」と言った。

「これからも変わらず、髙地はいじられ続けるでしょう」と言った。
聞きようによっては、ただのいじり。
けれど、聞きようによっては。


スノスト記念館でのリーダー決定の放送が1月上旬。ゆごほくお手紙放送が2月上旬。

おそらく、リーダー決定から北斗があの手紙を書くまでそう時間に開きはない。

だから北斗なりに、10年つくりあげた髙地との関係性のその範囲内で髙地を励まそうとした結果が、1人で気負いそうな髙地の肩を少しでも軽くしようとした結果が、あの言葉なのかもしれないと、そう思っている。

 


その表現方法の流れで行くと、

「成長したねって言われてること実は前からできてたよ」
「髙地のおかげでできていることがいっぱいあるよ」
「髙地が必要だよ」

とも読み取れるんじゃないだろうか。


そう読み取るなら、間違いなくこれは髙地に向けた“髙地へ”であるということになる。

自己肯定感・自己評価が低く、度々最年少をやきもきさせているのであろう彼への、「そんなことないよ」の言葉なのかも。

 

 

でもここで重大な問題がひとつ。


優吾はたぶん、そこまで北斗の言葉を読み解こうとはきっとしない。

というか、そもそも北斗のインタビューは読まない。北斗に限らず、きっとメンバーのものはほぼ。


大我さんは髙地の1万字を読んだと言ったけど、髙地は北斗の1万字の中身を知らなかった。北斗の1万字におけるあの“髙地へ”を。


だからきっと、ほぼ確実に、髙地はこの返信の必要のない伝言板の“髙地へ”を読まない。読まない人であると、北斗が知らないなんてことはあるんだろうか?

 

そう考えるとやっぱりこれは“髙地へ”の言葉ではあっても、髙地に伝えるための言葉ではないのかもしれない。髙地にわかってもらう必要のない“髙地へ”だったのかも。

 


でも、もしかしたら。

読むかもしれない、この伝言板はそういうシステムかもしれない。髙地が読むとわかっていて、こう書いたのかもしれない。

そして、その場合、北斗は“わかってもらえる”と思ってるかもしれない。

 

だって“こーち”だから。


“こーちならわかってくれる”って。
だって、“受け止めてくれる人”だから。

 

そして、もし、“わかって”しまったら。

髙地はたぶん、読み解きはしない。読み解こうとはしない。
でも、“わかって”しまうかもしれない。

 

ほんとは1個もわかってないくせにわかってるような顔する人だけど。
『北斗のトリセツ』本戦、堂々の最下位だけど。


でも、““北斗は末っ子気質””だから。

そこだけは外さない人だから。

だから、わかってしまうかもしれない。

 


双方の“わかる” “わかってもらう”が例え思い込みだったとしても、髙地が「わかった」と言って、北斗がその言葉を信じたら、北斗の意図は伝わったことになる。

 

 

だから結局、たとえ異質であったとしても、異質だからこそ、2人にとってだけは適切で正しい「髙地に向けた“髙地へ”」だったのかもしれない。

 

 

 

②「 “全部” ちゃんと “下” で “受け止めて” “もらってる” 」


受け皿ってなんだろう。

 

たれてくるしずくやこぼれて下に落ちるものを受ける皿。

 

大体の辞書にはこんな風に書いてあるみたい。


なんでしずくを受け止める必要があるのか。それは地面にこぼれ落ちては困るものだから。

 

それを、“全部”受け止めてもらってるんだって。北斗が自分では持ちきれなかったもの、持った方がいいけど、それができなかったもの。それ全部、髙地ならもつことができるし、持ってくれてるって思ってる。

 


これが、「拾い損ねたものを拾い集めてくれる」とかだったら、わたしももうちょっと心穏やかで居られた。

それだったら、お互いに自分の持つ量を調節出来る。それぞれに拾ってるんだったら、それは役割分担で、協力体制になる。

髙地が拾い損ねたものを北斗が拾う日も時にはあるのだろう、とそう思う事が出来る。それに、髙地自身にも「これ拾いたくねぇな」という判断、拾わないという決定ができる。2人とも拾わなかったものが普通に存在する可能性が全然ある。

 


でも、髙地と北斗はそうじゃないらしい。まず北斗という皿があって、そこから溢れ出したもの、受け止めきれなかったもの、零れたもの、その“全部”を受け止める皿が髙地。

「拾い集める」とのイメージの違いで考えると、「受け皿」である場合、髙地に選択権はない。北斗からこぼれたものを“全部”、“無条件”に受け止める。

 

そして、「受け“止める”」ということは、そこに留まるってことになる。

つまり、北斗からこぼれ落ちたもののなかで、さらに髙地からこぼれ落ちるものがあるというイメージが北斗の中ではとんでもなく薄いという解釈ができてしまう。

 

こーちなら受け止めてくれると思ってる、こーちならできるって知ってる、そして実際髙地はそれをやってきた。そんで、髙地が受け止めきれなかったもの、受け止めなかったものは、北斗の中で「受け止める必要が無いから髙地が切り捨てたもの」に分類されてくんだろうな。

 

こんなの“信頼”を飛び越えて“盲信”しているようにすらみえる。

 


そして、それを “やってもらっている” という認識があるのだ。単純に “そうなっているもの” ではなく、髙地が “やってくれていること” なんだと、わかってる。

 

つまりこれって、髙地の意思次第でやめることもできるのだ。


だから、“やってくれてること”っていう認識があるんだったら、普通はそこに対する感謝みたいな、有難みみたいな、そういうものがもうちょっとあるんじゃないかと思う。

北斗にそれが全くないってことは全然ないんだけど、たぶん大人の関係性だったらここに「やってもらってる申し訳なさ」みたいなのが付随してきてもおかしくないんじゃないかと思う。

でも北斗には、感謝はあっても、申し訳なさはないように思う。

 

だってそういうのがあったら、たぶんあんなに真っ直ぐに「髙地と一緒嫌だったよ」なんて言わない。

あの発言の瞬間、そしてその後の一連の流れの間、北斗は全く髙地の方をみない。

あの瞬間北斗が向き合ってるのは自分の中の感情だけで、そこに髙地は居るけど、髙地のこと気にはしていない。なぜなら、それも含めて全部受け止めてくれると思ってるから。そして実際、髙地は「そうね」という。そうやって受け止めてきた。


全部、全部全部、甘え。

 

だって“下”にあるものって、“土台”じゃん。“足場”じゃん。それがないと立てないじゃん。不安定じゃん。あんな言い方されると、髙地優吾なしに、「アイドル・松村北斗」は12年続かなかったんじゃないかと思ってしまう。

 

 

でも一方で、たぶん「アイドル・髙地優吾」も松村北斗なしに12年続かなかったのだと思う。

というか、「アイドル・髙地優吾」はきっと松村北斗なしに生まれてない。

 

 

「スクール革命が終わったら事務所をやめようと思っていた」というのは、デビュー以降何度か語られていることで、これだけをみるとスク革があったから「アイドル・髙地優吾」が生まれたように思える。

もちろんそれだって間違いはない。髙地がアイドルとなるための第一条件として事務所にいること=スク革にいることは絶対に必要なものだ。

でも、当時を知る人たちの意見をみると、スク革にいる髙地はあくまでも「紛れ込んだ一般人」だった。スク革にいるだけでは、「アイドル・髙地優吾」はずっと冬眠しているようなものだったんだと思う。

 


じゃあどこから彼は「アイドル」になるのか。

 

明確な契機はSixTONES結成ではあると思う。でもその以前にバカレアがあり、その更に前にあるSexyZone辞退。

正確にいうと、「中島・菊池と一緒にいることよりも北斗を1人にしないことを選んだ」

更にその上で「北斗と一緒にやっていきたい」と言った。

 

これが、たぶん、「ラッキーボーイ・髙地優吾」から「アイドル・髙地優吾」への変化の始まり。

 

それまでの髙地の仕事には、たぶんやる気も意思もなかった。

でもその瞬間 「やっていく」 ことを選んだ。

ただ 「北斗と一緒にいる」 のではなく、 「北斗と一緒に“活動したい”」 といった。

 

「辞めたい」と何度も言う彼の初めての 「やりたい」 が 「北斗と一緒に」 だったら?

だからジャニーさんはその後も2人を付かず離れずの距離に置いたんじゃないだろうか。

 

 

だから結局、双方に双方が必要なのだ。

“受け皿”の話にしたってそう。

北斗が零したものを髙地が受け止めてるってことは、逆に言えば、髙地が持ってないものは北斗が持ってるってことで、もしかしたら北斗が持っているものが髙地には受け止めづらいものなのかもしれない。

 

相補関係というには一方的すぎるように思える2人の関係も、それこそが髙地に必要なものなのかもしれない。

うお座には自己犠牲の精神があって、髙地は自己評価が低くて、自己肯定感が低いひとは「他者に必要とされること」で自己肯定感を保とうとすることがある。

 

これはたぶん、一方的な甘えではなく、緩やかな共依存。そんな様に思わせられた。

 

 

 

 

 

 

全部虚妄だ。全部誇大解釈。わたしの読解力と歪んだ性癖の問題。

でも、わたしにその解釈を余地を与えてしまったのは彼らの罪で、アイドルの業で。

だから追いかけずに居られないのだと、そう思うよ。